2015-05-13 第189回国会 衆議院 厚生労働委員会 第13号
これは一九五〇年代、沖縄の米軍の陸軍病院というのは、アジアで一番、東洋最大、東洋で一番水準の高い医療を提供していたそうでございます。そういうところと沖縄県の病院は提携を結んで、ハワイ大学とも連携して、進んだ医療を取り入れていったのが沖縄でございます。そういう病院に日本全国から新卒の先生方を研修に迎え入れて、その先生方は現在でも日本全土で仕事をしているという、この医療環境がございました。
これは一九五〇年代、沖縄の米軍の陸軍病院というのは、アジアで一番、東洋最大、東洋で一番水準の高い医療を提供していたそうでございます。そういうところと沖縄県の病院は提携を結んで、ハワイ大学とも連携して、進んだ医療を取り入れていったのが沖縄でございます。そういう病院に日本全国から新卒の先生方を研修に迎え入れて、その先生方は現在でも日本全土で仕事をしているという、この医療環境がございました。
そのときの凍傷がもとで陸軍病院に入院して、その後も痛い足を引きずって、陣地づくりなどの任務についたといいます。それが原因で今も歩行困難。夜は足が冷たくて、若い方はわからないかもわからないけれども、あんかを入れないと眠れないのだと訴えているんですね。私自身、この方から何度も何度もお手紙をいただき、お叱りも受けました。 きょうは、この裁定をどうにかしろと今言っているのではありません。
続いて、戦没者に対しての弔慰金なんですが、公務上今回の戦争で戦死したという場合、例えば、内地の陸軍病院において看護師さん、そういった方が亡くなった場合の父母、祖父母等々についてもこの給付金が行われてきたわけですが、例えば、陸軍病院でなく民間病院で空爆に遭った看護師さんの父母等々についてはなされていないわけなんです。
そのときの事故を起こしたブルック三等軍曹は、前の日に結婚をして、結婚手続をするために、キャンプ座間から陸軍病院に向かう途中の私有車の事故なんですよ。ところが、もう九月十七日には米軍は公務証明を出して、それで不起訴処分になっちゃったんですよ。 ですから、この第一次裁判権が公務執行中はあるというのを全部やっちゃったら、やはりおかしいですよ。日本は独立国なのか疑わしいわけなんですね。
三年の養成課程が二年に短縮されて卒業して、旧満州の鉄嶺の陸軍病院に行きました。そこで、大体、軍隊の正体を見ました。でも、どんな理不尽なことも、天皇陛下のためにということで大体片づけられておりました。戦争の正体も見ましたが、日の丸が正義でした。 敗戦になって、成り行きで八路軍の人たちと一年間生活をともにして、四六年の暮れに日本へ帰ってまいりました。
今日の国立病院の多くは、元陸軍病院、元海軍病院、それから元日本医療団結核療養所、それから温泉地に建った傷痍軍人療養所、こういうものが現在の国立病院、国立療養所の、圧倒的とまでは言いませんが、七、八割は占めているのではないかと思います。 ということは、国立病院というものは戦後民主主義の産物だというとらえ方があってしかるべきではないかと思います。
鯖江病院は言うまでもないことですが、三方病院も前の陸軍病院の跡であって、それは各地の国立病院と同じような経緯をたどっておると思います。 鯖江病院の周辺は、福井県の福井を中心とするエリアと、中部地区、福井県の丹南地区と一応言われております武生、鯖江市を中心にした二十三万ほどの地区、それから嶺南という敦賀から南の方の十五万ぐらいの地区に分かれております。
そこで、この主人公は武雄と申しますが、赤い夕日の満州で友を失って、みずからも傷を受けて内地の陸軍病院に返送されます。そして、やがて傷も治り戦争も終わってから郷里の村に帰って農耕にいそしみ、それから実業に励み、最後は村人から選ばれて村長になるわけでございます。この歌の最後の百五十一番と二番にはこのように書かれております。
国立病院は、議員もよく御承知のとおり、かつて大日本帝国時代における大半は陸軍病院であり海軍病院でありました。それを第二次大戦後、国立病院という、それ以外の要素もありますけれども、形で集約をいたしました。当然ながら地域的にもばらついておりますし、随分格差もございました。
部隊には捨ておかれ、傷口にたかるウジをみずからの手でつまみ出しながら数百キロの逃避行、自力でチェンマイの陸軍病院にたどり着いた、こういった歴史の方でございます。私はこの方から、日本の国籍条項があるばかりに何ら補償されない、こういった相談を受けたことから、きょうは国籍条項につきましてお尋ねをさせていただきたいと思います。
僕は戦後生まれですけれども、父親から小さいときに教えてもらったおっかない軍隊の情報機関があって、福岡の陸軍病院に行ってそんな話をしたのを思い出したものですから、そのおかげで父親は外地には行かなかったのですけれども、一体これは何なのかなということを思ったわけです。
私は戦後、臨東三、臨時東京第三陸軍病院、現在の国立相模原病院におりまして、百六十人の看護婦さんの手当てをした一人でございます。そのときに、手のない、足のない看護婦さん方が百六十人おいででございました。主に長野日赤、前橋日赤から派遣された看護婦さんであります。
昭和二十年八月九日のソ満国境の陸軍病院に勤務していた仲間数名は戦闘に遭って戦死いたしましたところ、彼女らの遺族には戦死という公報が入りました。また、捕虜生活や軍人同様強制抑留され、医療に従事した仲間もまだ生存しております。
同年、学術研究会議医学科会の原爆被爆者の診療とともに、米国調査団と協力いたしまして原爆被害の調査に当たりまして、一九四五年の十月と十一月を広島市宇品にありました臨時陸軍病院で過ごした経験がございます。
実は私のおじも大学の医学生でしたが、卒業して最初の赴任地が広島の陸軍病院でした。ですから、直爆を受けて八月六日に一瞬にして蒸発をしたと聞かされています。まさにジェノサイド、私はこのように原爆のことを思って育ちました。 こうした被害の実相についての国民的な一般的な認識があるからこそ、国家補償を明確にした援護法の制定を国民は支持し求めているのではないでしょうか。
このため、自衛隊の施設、これは陸上自衛隊衛生学校あるいは自衛隊中央病院、防衛医科大学校、こういった施設におきまして情報の集積並びに研究を行っており、さらに平成五年度から、海外、国内の熱帯医学を専門にしている施設、これは米軍のウォルターリード陸軍病院熱帯医学研修課程とか、ハワイにございますトリプラー陸軍病院感染症内科、こういった専門施設、また国内におきましては長崎大学の熱帯医学研究所、こういった専門施設
○政府委員(柳井俊二君) 私、タイのどの病院かまでは確認しておりませんけれども、恐らく陸軍病院も使わせてもらっているものと思います。
○田中(健)政府委員 国立病院・療養所は、戦時中の陸軍病院あるいは傷痍軍人の療養所等を戦後引き継いで、日本の医療機関も非常に疲弊をしていた時代に国民の医療のためにやってきたわけでございます。そういうことで、戦後の一時期は日本の医療機関のベッド数のおよそ三〇%は国立の病院・療養所が占めておったわけでございます。
○寺松政府委員 その以前は、御承知のように、東京第一病院は陸軍病院でございましたわけでございますので、陸軍軍医学校が所有しておった。したがいまして、陸軍省でございましょうか、と いうことになるのではないかと存じます。
幸い厚生省の医療センター、昔の第一陸軍病院ですか、あの戸山町の医療センター、これは林先生が厚生大臣のときにつくったのだったかと思いますが、ここに海外協力部というのがあります。今我妻先生が部長で、これは有名な我妻栄さんの御子息ですね。
ところが、これを今改めて本人たちが見直したというのですか、十年前にたしか来たんだけれども、これはどうなんだろうな、こう思って見ると、実はそのときの仕様書というのは、イラクの厚生省ではなくてイラク共和国国防省軍事管理委員会、それで陸軍病院の仕様書があったということが、今本人が改めて発見をしまして、これは大変なことだったんだな、こういうことで改めて、当時のイラクと日本というのは非常に、俗に言う友好関係にあったわけでございますから
動員された後方の陸軍病院には昼夜の別なくたくさんの砲弾が撃ち込まれました。国際法で禁止されていたはずのガス弾も使用され、五月九日、六月十九日に多くの学友を失いました。 戦場から運ばれてくる負傷兵の姿に、その無残な、残酷な姿に恐れ、震えおののきました。手がない、足がない、顔面が吹っ飛んでだれがだれやら判別がつかない。